『シンドラーのリスト』を再鑑賞する
ゆえあってスピルバーグ『シンドラーのリスト』を去年末に再鑑賞した折、思うところあったので記録します。
再鑑賞した経緯は、秋期に履修した現代芸術論で、ランズマン/ゴダール論争を学んだことから。
ランズマン/ゴダール論争というのは、ショアーつまりホロコーストの映像化は可能かという議論で、簡単に言うと、
〈 ショアーくらい唯一無二の惨劇になるといかなる表象化もムダ!不謹慎!当事者インタビュー以外ゆるすまじ!ナチ自身が撮ったガス室のフィルムがもし存在したとしてもバッチいから燃やせ! 〉
と言った(超意訳)のがランズマン。
〈 わかるマジわかる、特にスピルバーグてめえはダメだ、でもオレはそれでも映像のイメージ喚起力を信じてる! 〉
と言った(超意訳)のがゴダール。
ランズマンとゴダールとスピルバーグのアプローチの中から支持できるものを選べという課題が出たりしました。(ただしゴダールは言うだけ番長でショアーの長編は撮ってない
そこで遠い目をする私……。
スピルバーグは好きだよ。尊敬してるよ。でも『シンドラーのリスト』は、なあ……。
突然だけどこれを見て。
Severija - Szomuru Vasarnap (Gloomy Sunday) [Russian Version: Vaskresenje]
そう「暗い日曜日」。あまりにも有名な戦間期の自殺誘発ソングですネ。ちなみに引用元の『バビロン・ベルリン』最高なんで機会があったら観てください。BS12でひっそりやってた放送は終わっていますし、日本のネトフリその他には来ないそうなので(海外ネトフリにはある)難易度高いですが。
と思ったらgyaoで短期間だけ配信してましたね。現在は観られません。
『シンドラーのリスト』原作ノンフィクション・ノベルの中で、収容所長宅でバイオリン演奏をやらされていたユダヤ人収容者が「暗い日曜日」を弾くと面白いようにSS将校たちがふらふらと外に出ていって拳銃自殺したというエピソードがあり、それを読んで以来「そういうムードの曲と時代よねえ」という印象が私の頭にこびりついています。原作に思い入れがありすぎた私は原作に思い入れがありすぎた故にスピルバーグの映画は公開時に「なんだかなあ」と思いながら斜に構えてさらっと観ただけであった。「この時点でダッシュボードにダイアモンドいっぱいまだ持ってんだけどなあ」
原作で、アメリカ兵に捕まって“このガム噛み人種め”って思ってるシンドラーちゃん、すき。
・再鑑賞
そういうわけで二十年ぶりに再鑑賞。
レイフ・ファインズが若っっけえの!
じゃなくて、いや傑作でしたよ。素晴らしかったです。素直に凄いと思った。初見から抱いてきた記憶と印象ではごっそり抜け落ちてしまってたんですが、シンドラーのプラグマティックな成り上がり者っぷりもまあまあ一通りは描けてるのかな。うん。凄いよねスピルバーグ。ほんと凄い。凄い凄い。上手い上手い。いやー傑作ですよ。でも、変な映画だな、とも思って。どこが、つーとその。
アーモン・ゲートを一昔前のよく出来た古典少女漫画に出てきそうな屈折系サディストみたいに描く必要あった??
ってことなんですよ。物語としてよく出来てるけど、それ要る? 架空の物語なら素直に巧いなあ(もしくはキャラ的に旨いなあ)と思えるけれどもゲートだよ。実際かなり悪名高い部類の人物ですよね。
なまじレイフ・ファインズが若……じゃねえや超絶上手い役者なもんだから、その良さをまっすぐ鑑賞していいのだか、わるいのだか、私は何だか動揺してしまって。そういえば当時も妙な動揺を抱えながら『クイズ・ショウ』観たっけなあ。
ところで、〈ランズマンも認めた!〉といわれるほどに表象化のアプローチの新味を打ち出してみせた近年の作品に『サウルの息子』があります。
徹底的に主人公の顔と主人公が見ているもの(=もう見ていないもの)だけにフォーカスし、クレマトリウムで働かされるゾンダーコマンドの男を描こうとする映画。
フィクショナルな脚本ではなくてカメラの行方を以て何事かを映し出そうとする映画です。ゴダール的な考え方で言えば、そのほうが観客に思考の余地を与えるから好ましいというわけです。スピルバーグの映画は観る者にものを考えさせないからダメだと。
でも、この二つの作品てそんなに離れているかしらというとそうでもないよね。カメラの位置はともかく。
シンドラーが夢中になって炎天下の貨車に水をかけるシーンと、サウルが息子を埋葬することに無我夢中になってるの、どちらも時代状況による異常性の反転を描いている。どちらも、普遍の人間性を持てる平時の世界においては至極普通のことをしようとしているのに、あの時代のあの場所では異常者のように捉えられる、ということを。
おまけ。『シンドラーのリスト』の問題点として、パレスチナ問題への言及がなくバランスを欠く、とされると講義中に言及があったので、私はそれは言い出したら際限がなくなるから不要だと思う、と発言しました。
はっきり言ってしまうと私はこのカウンター(もしくは相対化)言説には常日頃からうんざりしています。ホロコーストの犠牲になった人々個人個人は戦後のイスラエル国家の行為に何ら関与していないからです。
私はネイションで見ます。民族ではなく。
ただ……その発言のあとで再鑑賞してみたら、なるほど確かにラストの締めのあたり、けっこう民族的な雰囲気というかイスラエル建設への導線を引いているんですね。これは記憶に残ってなかった。
ポーランド→イスラエル建設の密接な歴史はいずれにせよ肝要な事実なのでこういう演出でもいいんですが、一方で批判を惹きつけるのもわかる。わかりました。はい。
参考:
アウシュヴィッツからの頓呼法(アポストロフィ)──悪夢への目覚めをめぐって | 田中純 ‹ Issue No.29 ‹ 『10+1』 DATABASE | テンプラスワン・データベース
【クロード・ランズマン監督のホロコースト三部作が公開】語り得ない記憶を語る、表象できないことを映画にする、人類史上もっとも陰惨な事件の記憶と向き合う~ by 藤原敏史・監督 | 8bitnews