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流血地帯の歴史を紐解く『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 上下』ティモシー・スナイダー著

 

概要

 一九三〇年代から一九四五年にかけてソ連とドイツによる侵攻・併合と占領を受けた東欧地域(ポーランドウクライナベラルーシバルト三国、ロシア西部)を著者はブラッドランド=流血地帯と定義し、ソ連ナチスの政策による途轍もない大量殺人が発生した場所であることを緻密な文献調査を元に提示する。ソ連・ドイツ両国による占領・再占領が繰り返されたこの地域で少なくとも一四〇〇万人が、餓死計画や銃殺・ガス殺の遂行によって死に至らしめられたのである。この数字には戦闘死や移送中、労働中の衰弱死は含まれていない。あくまで故意の政策による死者数である。

 

1.ウクライナ飢饉から大テロル期

 一九二九年から三二年にかけて実施されたスターリンの第一次五ヵ年計画(工業化・集団化政策)によって、ウクライナを中心とした地域に大量餓死が引き起こされた(一九三三年)。犠牲者は五〇〇万人以上にのぼるとみられる。また、「富農クラークをひとつの階級として抹殺する」クラーク撲滅計画によって強制収容所組織グラーグが生まれ、グラーグに強制移送された一八〇〇万人のうち一五〇万人から三〇〇万人が死亡した。被害者であるウクライナ農民は革命政策の敵として位置付けられた。

 

当時、ソ連国内にいて飢饉を目撃した外国人共産主義者は、なぜかこれを民族の悲劇とはとらえず、人類の前進に向けた一歩と見た。作家のアーサー・ケストラーは、飢えた人々は「働くより物乞いをしたがる、人民の敵」だと信じていた。【上】p.106

 

 スターリンは日本とポーランドの挟撃を恐れ、一九三七年から三八年にかけての大テロル期には飢餓を生き延びた農民と特定の民族的少数派集団(主にソヴィエト・ポーランド人)がありもしない国家破壊工作活動の疑いをかけられ粛清の対象となった。七〇万人近くかそれ以上が処刑されたとされる。

 一方で、戦前期のナチス・ドイツ政権における政治的殺人は数十人程度にとどまっている。ヒトラーは突撃隊を粛清して切り捨てることで、突撃隊の競合相手であった国防軍を掌握した。

 

2.独ソのポーランド分割占領とモロトフ=リッベントロップ線

 一九三九年のポーランドへの共同侵攻によって独ソはポーランドを分割し、ポーランドの支配層、抵抗勢力となりえるエリート・教養人二〇万人を殺害した。一例として、ソ連に連行され処刑されたポーランド将校は二万一八九二人(一九四〇年春、カティンの森事件)。独ソはポーランド人一〇〇万人を強制収容所に送った。ドイツはポーランドユダヤ人をゲットーに隔離し、強制労働収容所と化した環境劣悪なゲットーには飢餓と病死が蔓延した。

 

国民社会主義は、ドイツ人が優越人種であることを前提としていた。だからナチスポーランドの文明の高さを示す証拠を目の当たりにした場合は、少なくとも自分たちに対して、この前提の正しさを証明する必要があったのだ。ポーランドの古都クラクフでは、有名大学の教授全員が強制収容所へ送られた。市場広場に建てられていたロマン派の偉大な詩人、アダム・ミツキェヴィチの銅像が台座から引き倒され、広場の名がアドルフ・ヒトラー広場(プラッツ)に変えられた。【上】p.214

 

 ポーランド人捕虜を見たことのあるロシアやウクライナの農民たちは、彼らとソヴィエト人では生き方が全く違っていたと回想する。数十年たっても、ポーランド人捕虜の身だしなみのよさや清潔さ、誇り高い物腰が記憶に残っていた。とてもではないが、ソヴィエト人のような生き方を強いることはできそうになかったという。少なくとも、あんな短い期間に、あんな状況では。しかし、ソヴィエト人のように死なせることは可能だった。【上】p。227

 

杉原は、フランス降伏後の独ソ関係の推移を見守ることができる立場にあった。そのような日本の高官は比較的少なかった。自分のスタッフを持たなかった杉原は、ソ連にもドイツにも捕まらずにすんだポーランド人将校を情報提供者兼助手として使っていた。そしてその見返りとして、彼らに日本のパスポートを与え、日本の在外公館の使用を許した。杉原は、彼らが仲間の将校たちのために脱出ルートを見つける手助けをした。ポーランド将校らは、ある種の出国ビザを発給してもらえれば、ソ連を経由して日本に渡れることに気づいた。このルートで逃げられたポーランド将校はごくわずかだったが、少なくともひとりが日本にたどり着き、ソ連を通過する途中で目にしたことを機密報告書にまとめている。/同じころ、ユダヤ人難民も杉原を訪ねはじめた。(中略)静かに、そしてきっぱりとおこなわれたこの措置は、ポーランドと日本のあいだで何十年も続いた情報収集面での協力関係を締めくくる最終章となった[一九四一年十二月に亡命ポーランド政府が日本に宣戦布告し、国交を断絶したが、その後も情報協力は継続された]。【上】p.232

 

3.ドイツのソ連侵攻と東方飢餓計画(その破綻によるホロコースト

 一九四一年六月、ヴァルバロッサ作戦をもってソ連に電撃侵攻したドイツは、しかし当初の予定通りの短期勝利を果たせず、進軍の鈍化につれ戦争目的が変容していく。ナチス・ドイツの戦争目的(東方総合計画)は、海の帝国イギリスに対抗すべくソ連を植民地化し、ソ連国民の大半を計画的に餓死させてドイツ人を入植させ、ユダヤ人問題の最終的解決方策として再定住(追放)地を確保するというものであった。ソ連侵攻の行き詰まりから(戦争の理由と目に見える結果を求める心理から)、最終的解決の「再定住」は抹殺の遠隔表現となっていった。モロトフ=リッベントロップ線の東側でドイツはソ連占領地およびソ連国内のユダヤ人を根絶やしにすべく町々から狩り集め大量殺人に及んだ。(特別行動隊AB部隊)

 初期における主な殺戮方法は銃殺である。谷間や森に連行した処刑対象者自身に穴を掘らせ、服を脱がせ、全裸で穴の底に(積み重なった死体の上に)横たわらせ、上から射殺する。

 ガス殺はドイツ内の安楽死政策いわゆるT4作戦のために考案された。安楽死政策でおよそ七万人をガス殺した時点で世論の反発を恐れてT4作戦は中止。のち、東方占領地のガス殺施設に転用。T4作戦に関わった医師が東方のガス殺施設の所長になるなどしている。

 ドイツの(支配民族と被支配民族という人種差別思想に基づいた)非人道的占領政策パルチザンを激化させ、ドイツ占領下のソヴィエト・ベラルーシでは三〇万人以上が報復と称するドイツの大量殺人の犠牲となった。

 

食糧の純輸入国であったドイツとその占領下の西欧諸国にとって、ソ連は唯一、現実的なカロリー源だった。ヒトラーも承知していたように、一九四〇年後半から四一年前半にソ連が輸出していた穀物は、九〇パーセントがウクライナ産だった。スターリン同様ヒトラーも、ソヴィエト・ウクライナ地政学上の資産と見なし、そこで暮らす人々は土を耕す機具であり、取り替えたり破棄したりできる道具であると考えていた。【上】p.258

 

ドイツ軍のナチ化は一九三三年以来、どんどん進んでいた。(中略)だが国防軍ナチス政権が切っても切れない関係になったのは、ソ連での勝利がなかったためだ。一九四一年秋、飢餓のただなかにあったソ連で、軍はモラル上のジレンマに立たされた。そこから抜け出す唯一の道が国民社会主義だったようだ。伝統的な理想の軍人像はきれいさっぱり忘れ、軍の現状を理にかなったものに見せてくれる破壊的な倫理観を受け入れるしかなかったのだ。(中略)/ヒトラーのヨーロッパではじめて収容所のネットワークを作り、運営したのはドイツ国防軍だった。こうした収容所で命を落とした人々は数千人から数万人、数十万人と増え続け、ついには数百万人に達したのである。【上】pp.282-283 戦争捕虜から人間以下の存在へ

 

ドイツは、収容所で恐怖と飢えにさらされていた戦争捕虜のなかから、一〇〇万人もの人員を選び出して、軍や警察の任務に就かせた。(中略)多くの者がシャベルを持たされ、溝を掘るよう命じられた。その溝の上でドイツ人がユダヤ人を銃殺した。(中略)ルブリン県のトラヴニキにあった強制収容所内の訓練施設に送られ、警備官になるトレーニングを受けさせられた者もいた。ナチス・ドイツに選ばれたこのような捕虜たちは、一九四二年にはドイツ占領下ポーランドの三つの殺害施設――トレブリンカ、ソビブル、ベウジェツ――に配備されていく。そこでは、一〇〇万人以上の ポーランドユダヤ人がガス殺されることとなった。【上】p.294

 

それから、身を隠しているユダヤ人をさがし出し、集めて街の大シナゴーグに閉じ込め、食物も水も与えずにおいた。しばらくすると彼らは銃殺されたが、数人が死を迎える前に石やナイフやペンを使って、かつて安息日の祈りを捧げたシナゴーグの壁に、イディッシュ語ポーランド語のメッセージを残した。/ふたりの少女はいかに自分たちが人生を愛しているかを綴った。「こんなにも生きたいのに、彼らはそれを許しません。復讐を、復讐を!」【上】p.346

 

ドイツに併合された旧ポーランド総督府ユダヤ人の大量殺害がはじまったのは、占領が二年以上続いたころだった。ユダヤ人がゲットーに入れられてから一年以上が過ぎていた。ポーランドユダヤ人は、六つの主要施設――ヘウムノ、ベウジェツ、ソビブル、トレブリンカ、マイダネク、アウシュヴィッツ――でガスによって殺された。これらの施設のうち四つは総督府に、ふたつはドイツ併合地域にあり、一九四一年十二月から四四年十一月まで、なんらかの形で連携して機能していた。モロトフ=リッベントロップ線以西で虐殺作戦の中心となったのは「ラインハルト作戦」だった。これにより、一九四二年にベウジェツ、ソビブル、トレブリンカの収容所で一三〇万人のポーランドユダヤ人がガス殺された。そのあとを受けたアウシュビッツでは、主として一九四三年と四四年に、ポーランドユダヤ人約二〇万人とその他のヨーロッパ・ユダヤ人七〇万人以上がガスによって殺害された。【下】p.52

 

 ドイツは(ドイツ国内のユダヤ人の追放地を確保する目的を含んだ)東方侵攻によって、元々ドイツ内に住んでいたユダヤ人の総数よりはるかに多くのユダヤ人人口を抱え込むことになり、この人々がホロコーストの主な犠牲者となった。戦争の長期化でドイツ国内の労働力が不足すると、人種差別の対象であったスラブ人(ソ連軍捕虜等)をドイツ国内に輸送して労働力とし(この間は差別的プロパガンダも緩められた)、占領地ユダヤ人への措置(ゲットー内での強制労働かガス室か)もまた経済状況によって若干変動した。

 

4.スターリンによって覆い隠されたもの

アメリカの外交官ジョージ・ケナンの見方は正しかった。スターリンの国内軍に対する冷たい仕打ちは、アメリカとイギリスにとっては大きな衝撃だった。そういう意味で、ワルシャワ蜂起は大戦後世界を二分した対立の発端となったのだ。p.135

 

 ポーランドワルシャワ蜂起をスターリンは見殺しにし、西側連合国もまた戦後処理においてポーランド(非共産派の亡命政権)を冷淡に切り捨てた。蹂躙され破壊されたポーランドの現実とともに、ホロコーストの実相の大部分は歴史の流れに覆い隠されることとなった。

 スターリンソ連では、ロシア人の苦難と被害の歴史が強調され、これを否定するエピソードは不要だった。ドイツ占領下でソ連人がホロコーストの協力者とならざるをえなかった事実は隠蔽されねばならなかったのだ。ソ連共産党幹部のユダヤ人によってすら、ソ連に必要なストーリーのために歴史は歪曲された。

 ソ連指導層のユダヤ人粛清が始まろうかとするときにスターリンは死亡したが、第二次大戦終結後の世界はすでに情報化が進み、(西側世界との経済格差が明らかとなり)政策的大量殺人は引き起こされにくい時代となっていたようだ。

 

 

しかしワルシャワポーランド人や、ワシーリー・グロスマンや赤軍の兵士が知っていたように、それは真実にはほど遠かったのだ。最悪の罪の証拠は、ワルシャワの瓦礫の中に、トレブリンカの畑に、あるいはベラルーシの沼沢に、バビ・ヤール峡谷の穴に隠されていたのだ。/赤軍はこうした施設と流血地帯のすべてを解放した。そしてあらゆる殺戮場と死んだ都市は、鉄のカーテンの向こう側、スターリンヒトラーから解放してわがものとしたヨーロッパに隠れてしまったのだ。p.138


総評

 冒頭のウクライナ飢饉からすさまじい大量の〈死〉と理不尽さに圧倒される。スターリンソ連で、理屈を超越した無茶振りの政策で積み重ねられていく死者数。「死刑」「死刑」の判決をまき散らしながら疾走するトロイカ(三人の党役員によって組まれる簡易裁判組織)の凶悪な圧政感はどこか戯画的ですらあり、脳内にスラップスティックなアニメーションで再現されてしまう。作付け用の種株まで根こそぎ収奪して飢餓からカニバリズムが起るほどになっても飢饉は農民のサボタージュとうそぶくソ連共産党がもうわけがわからなすぎる。しかしドイツが本格的に大量殺人に参戦してくると、もはや呆れることも笑うこともできなくなる……。

 本書はソ連崩壊後に可能となった文献調査を元に、冷戦で覆い隠されていた第二次大戦期の〈流血地帯〉の大量殺人について究明した大書である。著者の言う〈流血地帯〉とは、ソ連→ドイツ→ソ連という、独ソによる占領侵攻撤退再占領の行き来があった地域のことだ。戦争状態の軍隊が行き来するだけで地元住民に起こりうる悲劇は想像に難くないが、本書に取り上げられるのは戦闘にともなう不慮の悲劇ではなく、明らかにソ連とドイツの政策によって意図的に殺された人々について。現代の普通の人間の感覚ではおそらく読後しばらくは「人類不信」のような心理状態に陥って抜けられなくなるような凄惨な内容だが、それだけに(近現代史がお好きな人々には)一読を推奨したい。

 最初から最後まで、膨大な死者の数字、数字、数字という非情緒的でドライでリアリスティックで理性的な筆致の書ではあるのだが(筆致という以上に歴史的事実があまりにも非道で非情で非人間的でありすぎるのだが)、唯一ポーランドワルシャワ・ゲットー蜂起におけるポーランドの非ユダヤ人とポーランドユダヤ人のやっと持てた連帯や、亡命ポーランド政権の訴え(連合国はしかしユダヤ人に起きていることに冷淡だった)と挫折のあたりに心動かされる人間性のドラマが読めた。消息不明のポーランド将校たちの行方(すでにカティンの森事件で殺されていたのだがソ連はしらを切る)を捜しにソ連に派遣された人のエピソードも心に残る。ポーランドというのはそういう国なのだな。

 

 まとめきれぬ思いがあるので後日追記するかもしれません。

 

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